満月より少し欠けた月が東の空に姿を現す。
 俺としげは砂浜に並んで座って、心地よく耳をくすぐる波音にぼんやりと聞き入っていた。
 ビーチサンダルは脱ぎ捨てたまま。裸足に砂のやや湿った冷たい感触が気持ちいい。
 しげも、まくっていたズボンの裾は戻したが、俺に倣って裸足のまま膝を曲げて座っている。
 さっきまで繋がっていた名残を惜しむように、砂地についた俺の左小指としげの右小指が微かに触れ合っていた。
 温もりすら伝えられないくらいの接触。だけどそれだけで充分な気がした。
「ねえ、しげ……」
 たくさん話したい、いろいろ訊きたいという気持ちはあるのに、どこから手をつけていいやらわからない。
 しげの視線がやわらかく俺に注がれる。
「俺、さっきちょっと思い出したんだよね……。小さい頃、ここに来てたときのこと」
 何歳なのとか、どんな仕事してるのとか……ありきたりなことを訊くのは何故だか躊躇われて、結局自分の話を聞いてもらうことにした。
「たぶん……まだ泳げなかった頃。小学校に上がる前くらいかな。父さんにだったか……慣れさせようと思ったんだろうね、水をかけられて。俺は嫌がってふて腐れて、岩場でいじけてた」
 いくつかの映像が、断片的だけど鮮明に、脳裏に浮かび上がっている。
 すっかり忘れてしまっていたことが不思議なくらいに。
「じっとしゃがみこんでたら……こう、岩がごつごつしてて、水たまりみたいになってるところあるでしょ? そこで、綺麗な魚を見つけたんだ」
 ひく、としげの指が僅かに震えた気がした。
 俺は一度言葉を切ってしげの表情をうかがったけれど、彼の穏やかな顔つきを見てまた口を開く。
「青緑色っていうのかな……そんな色で、鱗が光に反射してきらきらしてた。宝石みたいで、すごく嬉しくなって――」
 それから――それから、どうしたんだっけ?
 脳裏に映っていた記憶は途切れてしまった。まだ続きがあるはずなのに……。
「……それから、どうしたん?」
 首を傾げて、穏やかにしげが問う。俺は苦笑を漏らして頭を掻いた。
「うーん……その先は、思い出せないみたい」
 そう、と吐息をこぼしたしげは、何だかほっとしているようだった。
「しげは……此処の海に、どんな思い出があるの?」
 訊いてはいけないかもしれない、しげの気持ちを踏みにじってしまうかもしれないと思いながらも、俺はやっぱりそれを訊ねずにはいられなかった。
 はっと、しげの眼が見開かれる。
 その奥に在るのは、不安……? いや、怯え……?
「あ……ごめん、その……言いたくなかったら、いいから、言わなくても……」
 砂と一緒に拳を握り込んだら、爪の間に砂が詰まってしまって不快感が襲う。
 ――俺はしげに、こんな表情をさせたいんじゃないのに。
「達也は悪ぅないよ」
 しげはきゅっと両膝を抱え直し、俺の方へ柔らかい視線を向ける。
「僕が、逃げてるだけ……。もう終わりにするって……自分で決めた癖に、なぁ」
 終わりにする。
 その不吉な単語に俺の心はざわついたが、しげの表情は落ち着いていた。
「小さい頃、1回だけ此処の海に来たことあるって……話したやんな? そのとき――1人の男の子と出逢ったんよ。その子の顔立ちも、声も、表情も……薄れてくばっかり、やけど。でも、伝えたいことがあって……やから、僕」
「その子を捜して……この海に……?」
 阿呆らしいやろ、と自嘲して笑うしげに、俺はただ首を横に振ることしかできない。
「どうしても、一言、伝えたくて……毎年、ってわけにはいかんかったけど……此処に来てた。こんな難しいことやとは……思てへんくて。でももう……今年で終わりにしよう。そう思て、今、ここに居る」
「……あきらめる、ってこと……?」
 しげは緩く肯く。
「俺、何か出来ることあったら手伝うよ? そんな……ずっと捜してて、ここであきらめるなんて……」
「ありがとぉ、達也。……でも、えぇんよ。僕は納得してるんやから」
「で、も……」
 俺の言葉を遮るように、しげがにっこりと笑う。
 もうしげの決心は揺らがないのだ――俺がどうこう言えることじゃない。
 口をつぐんでしまった俺に、しげはしばらく視線を注いでいたが、不意に右手を持ち上げて俺の左手の上に重ねてきた。
「たぶん……もうえぇかなって思えたんは、達也に逢えたから、てのも……あると思うんよ」
「しげ……」
 俺の手の甲に重なる、しげの掌。伝わる体温。
 彼の手を握り返したい――だけど、初めてしげの方から触れてくれた感触を壊したくなくて、俺は左手を動かすことができなかった。
「ありがとぉな……達也。ありがとぉ……」
 繰り返される俺への謝辞は、もしかすると、探し当てられなかった遠い日の面影へ向けたものなのかもしれなかった。


2010.10.24

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