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翌朝も、俺はいつもと同じく、自転車で海へ向かった。 ただ、坂を下りながら眼に入ってくる海の様子から、今日は波に乗れそうにはなかった。 それなのに俺が引き返さないのは、しげが来ているかもしれないからだ。 待ち合わせは今日の夜――だけど、朝の約束はどうするかというのを訊いていなかった。たぶん、夜に逢うのだから朝は来ないだろうとは思うけど……万が一、しげを待ちぼうけさせてしまったら申し訳ない。 坂の下に辿り着き、キィッと音を立ててブレーキをかける。 いつもしげの姿が見える海の家の庇の下に、その姿はなかった。 9割がた来ていないだろうと思ってはいたものの、もしかするとしげに逢えるかもしれないという期待がなかったわけではないので、俺はちょっとがっかりしてしまった。 開店準備を始めるには早すぎる時間だ。もう一度坂を上るのは大変だから、海の家の中ででも時間を潰そうと、いつも通り自転車を持ち上げて石段を降りる。 自転車を奥に停め、シャッターを開けようとして――何か紙切れのようなものが挟まっていることに気がついた。 「うぉ……っと」 風で飛んでいきそうになったそれを、ばしんと掌で砂地に押しつけることで留める。 どうやら2つ折にされたメモ用紙のようだ。 昨日シャッターを閉めたときにはこんなものなかったはずだけど、と思いながら何の気なしにそれを開いた。 達也へ おはよう。 今日の朝は、ごめんやけど会いにくることができません。 夜に会えるのを楽しみにしています。 茂 平らでないところで文字を書いたのか、線が細かく震えている。それにしてもあまり上手とは言えない字だったので、ちょっと笑ってしまった。 「しげ、いつ来たんだろ……」 朝は来られない、ということは、昨夜のうちに置きに来たのだろうか。 わざわざ、こんな紙切れ1枚のために。 「……律儀だなあ」 だけどこれを見て心があたたかくなったのは事実だった。 俺はメモ用紙に書かれたしげの文字をもう一度眺めてから、丁寧にたたみ直し、ハーフパンツのポケットに入れた。 そして真っ青に晴れた空を見遣る。 東の空を昇りかけている太陽は、まだまだこれから高度を上げていく。 「早く夜にならねぇかな……」 夏の日中が長いことを、今日ほどじれったく感じた日はなかった。 その日の午後7時50分頃、夕食を食べ終えた俺はおじさんの家を出た。 いつもの自転車、だけどボードは置いていく。 空はよく晴れていて、月はまだ出ていない。今は住宅やら街灯やらの明かりで見えにくいけど、眼が慣れたら星が綺麗に見えるだろう。 坂を下り、街灯が途切れると、自転車のライトが浜辺をわずかに照らし出す。 すると、石段の一番上に腰かけていた人影が立ち上がった。 「しげ!」 俺は自転車を降りて、押しながらしげの傍へ駆け寄った。 「朝、手紙見たよ。ありがとう。でも、わざわざそんなことしなくてもよかったのに」 「そぉか……? でも、達也が心配したらあかんなぁと思て」 俺のことを考えてしげが行動してくれた、そう思うととても嬉しい。 石段を下り、いつも通りの場所に自転車をしまってから、後からついてきていたしげを振り返る。 「しげ、ちょっと来て。見せたいものがあるんだ」 こくんとしげが肯くのを確認してから、俺は先に立って歩き出す。すると数歩行ったところで、背後から「うわっ」という声が上がった。 「しげ?」 振り向くと、しげはどうやら砂地に足を取られてころんだらしく、膝と手をついて座り込んでしまっていた。 「大丈夫、怪我してない?」 「ん……ごめん、ありがとぉ」 俺の差し出した手を取って、しげは立ち上がった。そして、長袖のシャツやズボンについた砂をぱたぱたとはたく。 伏せた睫毛から覗くしげの瞳の色は、思ったよりとても薄い茶色だった。 「しげって、もしかして眼悪い?」 「あぁ……うん、ちょっとな……」 しげは薄く苦笑を浮かべる。 ごめんな、行こか、と歩き出そうとしたしげの左手を、俺はきゅっと握った。 「……達也?」 やや驚き、戸惑い気味のしげの声音。俺はくすりと笑う。 「またこけるかもしれないでしょ? おとなしく手引かれてなって」 俺を見つめていたしげの眼がまたわずかに伏せられて、唇から笑みを含んだ吐息が漏れた。 「……うん。ありがとぉ」 そうして俺の手を握り返してきた。 少しかさついた皮膚、やわく手に馴染む感触をもう一度握りなおして、俺はしげの手を引いて目的の場所へ向かった。 | |
2010.09.25 |
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