その日の俺は、客が来るたびにあの青年ではないかとそわそわし、違っているのを見てがっかりし、のくり返しだった。
 せっかく仕事を覚えてミスしなくなっていたのに、その所為で今日は3回もつり銭を間違えてしまった。
 大きな間違いではないし、おじさんは大らかな性格だから「達也くん今日は調子悪いねー」なんて笑って済ませてくれたけれど。
 結局、閉店時間になってもあの青年は姿を見せなかった。
 もしかしたらひょっこりやって来るかもと作業をいつもよりゆっくりやってみたけど、全然意味がなかった。
 俺は確かに「よかったら来て」と誘いはしたけれど、約束したわけではない。しかも今日、と断定したわけでもない。
 だから、彼が来なくても当たり前なのだ。むしろ、来てくれる確率の方が少ないだろう。
 そう自分に言い聞かせてみても、落ち込んだ心はなかなか浮上してくれない。
 そもそもどうして、たった一度逢っただけの何の変哲もない青年のことでこんなにも感情を揺さぶられなければならないのかと不思議だけど、実際そんな事態に陥っているのだから、理由を考えてみたって無駄だと思った。
 ごちゃごちゃ考え込むのは性に合わない。
 彼に逢えば、もやもやした俺の気持ちは確実に上向くということだけは自分でもわかっている。とりあえず行動あるのみだ。
 海の家のシャッターを下ろした俺は、裏手にある石段を上り、その最上段に腰かけた。
 今の俺にできることは、今朝彼を見かけたこの場所で、こうして待ってみることだけだった。


 ため息を落として左腕にはめたデジタルウォッチを見遣る。
 午後8時。太陽が沈んで随分時間が経ち、東の空からは満月より少し欠けた月が昇ってきた。
 そろそろ潮時だろうと思って立ち上がってはみたものの、やっぱり何だか帰りがたくて、俺は浜辺に下りた。
 眼はすっかり暗闇に慣れていたので、足取りには迷わない。
 波打ち際まで来て、ビーチサンダルを履いた素足に波をかぶりながら歩く。半分八つ当たりのように波を蹴り上げて、バシャバシャと大きな音を立てた。

「たつや、くん?」

 ともすれば潮騒に掻き消されてしまいそうな、静かな声音。
 だけど俺の耳にはこれ以上なく鮮明に聞こえた。
 勢いよく振り返ってみれば、数メートル離れた砂浜にぽつりと、その青年は立っていた。今朝と同じ格好で。
「あ……!」
 慌てて水から上がって、彼の呼びかけに答えようとして俺は愕然とした。
 俺は彼の名前を知らない。――当たり前だ、お互い名乗りもしていないのだから。
 それなのに彼は、正しく俺の名前を呼んだのだ。
「な、んで……何で俺の名前、知ってんの?」
 思わず少しきつい口調で飛び出した問いかけに、彼はゆるりと瞬きをしてから口を開いた。
「昼頃……君の働いてるところ、のぞいてみたんやけど……忙しそうにしとって、話しかけられへんかったん。そのとき、『たつやくん』て呼ばれとったから……」
 聞いてみれば何てことはない理由だった。
 しかも彼は、俺との約束をきちんと覚えていて海の家まで来てくれていたのだ。確かに昼頃は一番盛況な時間帯だから、いくら俺が彼の来訪を気にしていたとはいえ、気づかない可能性もあるだろう。
 我ながら単純だと思うけれど、みるみるうちに頬が緩んでいくのがわかった。
「達也でいいよ、呼び捨てで。ねぇ、あなたの名前も教えて?」
「……茂」
 彼の言葉はまるで泡沫のように、空気中へ脆く溶けてゆく。
「しげる……、じゃあ……しげ、って呼んでもいい?」
「ん……えぇよ、達也」
 しげは優しく眼を細めて微笑した。

2010.08.15

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