君の温もりは未だ | |
夏、かげろふ | |
夏の太陽は随分と早起きだ。俺が目覚まし時計に起こされる頃にはもう、空を明るく染めている。 俺はその眩さに急かされるように軽い朝食を掻き込んで、愛用のボードを取りつけた自転車で海へ向かう。 大学4回生の夏休み。 5月には第2希望だった会社から内定をもらい、単位の取得にも余裕がある。おまけに俺の所属するゼミは卒業論文の提出が義務づけられていない。 時間は有り余っていた。 恋人もおらず、特に夏休みに予定もなかった俺に声をかけてくれたのは、夏になると海の家を経営している親戚のおじさんだった。 毎年手伝ってくれる人が急に来られなくなったから、よかったら手伝ってくれないか? と。 近年は疎遠になっていたが、幼い頃よく遊びにいっていた記憶があったので、俺は一も二もなく了承した。 寝泊りする場所は、海の家のアルバイトで遠方から来る人のために開放しているおじさんの家の離れを使っていいということ、そして海の家の開店時間以外は自由に過ごせるということがかなり魅力的だったのだ。 海岸を見下ろす丘の上にあるおじさんの家から海までは、自転車で道路を一気に下り降りる。 此処に来てもう1週間が経った。仕事の要領も呑み込め、朝早く起きることも苦労しなくなってきた。おかげで、やっとボードに熱中する時間を捻出できつつある。 早朝といえど、海岸にはもう、俺と同じ目的の人たちが多く見られた。海の方へ眼を向けてみれば、波に乗っている人影もある。 俺は自転車をおじさんの海の家の陰に停め、ウエットスーツ姿になって軽く準備体操をしてから、ボードを抱えて海を目指して駆け出した。 ――どれくらいの時間が経ったのか。 波に乗っていると、時の過ぎるのを忘れてしまう。 けれど太陽がだいぶん高く上がっているし、浜辺の様子からも海の家の開店時間が近づいていることがうかがえた。 俺はボードに腹ばいになって、波に押されるまま岸に戻る。 ぽたぽたと滴を垂らす髪をかき上げながら、荷物の置いてある海の家のほとりに辿り着いた。 そして着替えをはじめたのだが――ふと、自分の上に影が落ちているのに気がついた。見上げてみると、俺の頭上に人がいた。 俺がいる海の家のすぐ傍には浜辺へ降りるための石段があり、人影はその最上段にぼんやりと立ち尽くしていたのだった。 長袖のジャケットに白いシャツ、黒のズボン。8月上旬の真夏の海辺にいるとは思えない格好だ。俺だったら1分もしないうちに汗だくだろうに、彼の肌には汗の玉ひとつ浮いてはいない。 ややアッシュがかった茶色の髪は長くも短くもなく、前髪はふんわりと下ろされている。 歳は、俺より少し上くらいだろうか。落ち着いた佇まいだけど、そんなに離れてはいないと思う。 季節はずれな服装を除けばこれといって特徴のない、細身の青年。 それなのに何故か、眼を惹きつけられてしまう。 俺は着替え途中の手を止めてまで、その青年をぼんやりと見つめてしまった。 すると彼の眼が動いて、一瞬、俺のことを捉えた。 けれどそのままするりと視線を外されてしまう。それが俺の胸を妙にざわつかせた。 「あ、あの、ちょっと待って!」 思わず大きな声を上げていた。 彼はきょとんと眼をまるくして、再び俺を視界に映す。表情が一気に幼くなって、もしかすると年上じゃないかもしれないと思わせた。 俺は慌ててTシャツをきちんと着、ビーチサンダルをつっかけて石段を駆け上がる。 彼はちょっと困ったような微笑を浮かべながらも、立ち去らずに留まってくれていた。 「……僕に、何か?」 「あ……えーと」 改めて彼と向き合い、俺は何の話題も持ち合わせていないことに気づく。 ただ彼を引き止めたかった。 俺から視線を外した彼が、そのまま風に吹かれてさらさらと消えてしまいそうだったから。 「ここ……海の家なんだけど。俺バイトしてるから、よかったら来てよ。アイスでもジュースでも、ひとつくらいならサービスするよ?」 まるで子どもの気を惹く陳腐な台詞だったけど、彼は「ありがとぉ」と関西訛りの穏やかな声音と一緒にやわらかく笑ってくれた。 ピピピ……とデジタルウォッチのアラームが鳴る。そろそろ開店準備を始めなければならない。 彼の笑顔に気を良くした俺は軽い足取りで石段を下り、店のシャッターを上げるためにしゃがむ。そこで彼の名前を訊いていなかったことに思い当たって顔を上げた。 「あ、ねぇ、そういえば名前……」 ――しかし、振り仰いだ石段の上に、彼の姿はなかった。 | |
2010.08.07 |
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