0. 迷い人と人形の館



 ――此処は(とき)の狭間。

 ――人間世界で刻まれる時間のわずかな歪みの隙間に出来た、閉鎖的な世界。

 ――其処に迷い込んだ人間が、ひとり。



   ◇



「すげぇでっかい屋敷だなあ」
 深いバイオレットに染まる空に、かかる三日月の色はアイスブルー。
 蔦の絡まる門扉の奥に建つ、まるで影でこしらえたようなおどろおどろしい闇色の館を見て、その迷い人が出した第一声はそれだった。
 軽装の旅姿で、上に羽織ったマントはそれなりに使い込まれている。
 腰に数打ちを()いているので、剣士であるらしい。
 彼は、少年らしい輝きを放つ切れ長の眼に、キラキラと期待を宿していた。
「何かよくわかんねーところに来ちゃったけど、探検しがいありそう!」
 そうして躊躇いもなく、彼は錆びた門扉をぎしぎし軋ませながら開き、敷地の中に進入した。
 そもそも彼が(とき)の狭間に迷い込んだ原因は、このような無鉄砲な好奇心であるのだが……彼自身にはその自覚が全くなかった。
 彼はひとつも臆することなく館の扉の前まで辿り着くと、輪状のドアノブに手をかけてトントントン、とノックした。
「えーと、こんばんはぁ? 誰かいらっしゃいますかー?」
 呼びかけてはみるものの、返答はない。
「やっぱり誰も住んでないのかな?」
 ひとりごちて、ドアノブをグッと引っ張ってみると、ギギギ、と重たい音が響いて、両開きの扉の右側が少し前にずれた。
「わぁ、開いてる! 入れんじゃん!」
 秘密めいた館の奥に進めるらしいことに、トモヤは素直に喜んだ。今晩の寝床には困らないし、それに――
「もしかしたら、何か食うもんあるかもっ!!」
 錆びついた扉を何とか自分ひとり通れる分だけ開いたトモヤは、背伸びするような格好で扉の隙間を通り抜けた。

 内部は思ったより明るかった。
 玄関ホールの天井が吹き抜けになっていて、アイスブルーの月光が多少なりとも届いているからだろう。
 床には一応絨毯が敷かれているが、古びて色褪せていた。
 ホールの中央には円形の台があり、その上には埃を被ったピアノが置かれている。
 その奥、部屋の突き当たりが広い階段になっていて、踊り場で左右に分かれて再び階段になり、二階へと続いていた。
 雲が流れたのか、さあっと数秒間ホール全体が淡く照らしだされ、トモヤは気がついた。
 ――ピアノの椅子に、誰かが座っていることに。
 しかしそれが生きたモノでないことは、この部屋のしんと冷たい空気で一目瞭然だった。
 それでもトモヤは無意識に息を詰め、そうっと台に足をかけると、椅子に座る人型のモノの顔を覗き込んだ。

 それは、血の気が感じられない以外はまったく人間と相違ないように見える、極めて精巧なつくりをした人形(ドール)だった。

 黒い短髪の、小柄で細身な男性人形。
 見開かれた眼にもし光が宿っていたなら、さぞ強い眼力を放つのだろうと思わせる、ぎょろりとした三白眼。
 ピアノの蓋は閉じられているが、もしかしたら彼は、客人がこの館を訪れるとピアノを奏でる楽士の人形(ドール)だったのかもしれない。
 彼の左手はピアノの蓋に添えられており、その手には薔薇が一輪、握られていた。
 膨らんだ蕾からわずかにこぼれる花弁の色は、深き紅。
 ピアノやそれの乗っている台は埃が積もっているのに、この人形(ドール)と薔薇だけは洗われたように綺麗なのが不思議だっだ。
「ひとりでに動いたりとかしそう……したらスゲーけど」
 人形(ドール)とは、その主たる人形師に生命を握られた存在だ。
 人形の意思というものは存在するようだが、それは主が簡単に封じ込めてしまえるくらいに脆弱なものだと聞く。
 人形師から命を与えられる人形など所詮、傀儡(かいらい)でしかない。
 ひとりでに動くことなんて、ありえないのだ。
 その証拠に、トモヤの目の前に在る男性人形も、瞬きひとつせずただ其処に存在しているだけだった。

 台から下りたトモヤの視線は、そのまま奥の階段に注がれる。
 踊り場にも人形らしきものの影があることに気づいたトモヤは、まっすぐ階段の方へ足を向けた。



2010.03.31

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