君の温もりは未だ | |
さざ波揺れる | |
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう――。 俺にとってこの一週間、しげと過ごした時間は、その言葉を如実に表していた。 朝、海から上がってきたとき、海の家の日陰にいるしげに向かって手を振ること。 しげがやさしい声音で「お疲れさん、達也」と言ってくれること。 星が零れ落ちてきそうな空の下、砂浜に二人並んで座ること。 波の音しか聞こえない静寂の中、会話はなくてもただしげが傍に居るだけで心が満たされていくこと――。 それらすべてが俺の中で無くてはならないものになっていて、このまま夏休みが終わらなければいいのにと感じるようになっていた。 大学生の夏休みは9月いっぱいあるけれど。しげと一緒にいられる時間はきっと、あとわずかだ。 その期限を知るのが嫌で、俺は未だにしげがいつまで此処に居るのかを訊ねていなかった。 いくら見ないふりをしてみても、休暇を終えたしげが帰っていくのを止めることなんて出来やしないのに。 今日こそはと心に決めて、俺は朝の風を受けて自転車をこぎ出した。 けれどこの日の朝、俺はしげに逢うことはできなかった。 海の家のシャッター下にメモが挟んであって、朝は行けないけれど夜は逢いに行くという旨が書かれていた。 またもや決心が先延ばしになってしまって、俺は少なからず力が抜けてしまったようだ。波に乗る気分になれず、ぶらぶらと砂浜をうろつくことにした。 岩がごつごつした磯のあたりは、小さな生物が多くておもしろい。 窪みに水が溜まった場所なんて、まるで海の箱庭だ。いつまでだって飽きずに観察していられそうだと思う。 ああ、そういえば、幼い頃も同じことをしてたんだっけ。 本質は変わってないんだなぁと思うと、苦笑が漏れた。 体長5センチにも満たないハゼのような魚が、その窪みの中でじっと佇んでいる。悪戯心を起こして、俺は水面を指でちょんと突いてやった。ハゼは、びっくりして跳ね上がるように水の中で動いた。 ――こら、達也。おさかなさんを驚かしちゃ駄目だろ? 脳裏に、まだ若い父親の声が蘇る。 小さな小さな掌。……あのときすくい上げたのは? ――あら、綺麗な色のおさかなさんねえ。 母親が覗き込んだ、俺の掌の上。 指の間を擦り抜けていく海水。ぴちぴちと跳ねる、ぺったりと冷たい感触。 あれは――海の宝石みたいな色をした、小さな魚だった。 以前、しげに話したこの海での思い出が、なめらかな映像となって蘇る。 泳げなくて水が怖かったし、ぬるぬるした魚の感触も好きではなかった。だけどその魚は、手で触っても大丈夫だった。一般的な金魚より一回り大きいくらいで、幼い俺の掌にもすっぽり収まっていたから、そして何よりその綺麗な色に魅せられていたから……苦手意識を感じなかったのかもしれない。 ――お父さん、お母さん。このおさかな、持って帰っていい? 俺はたぶん、それが魚という生物であることをあまり認識していなかったのだと思う。 ただただ綺麗で、自分のものにしたくなった。それだけ。 ――駄目よ、達也。おさかなさんは、海に帰してあげなさい。 ――海は怖いから、持って帰るの。おさかなさん、怖いのかわいそうだもん。 自分が泳げないものだから、あの綺麗な魚も海が怖いと思ったのだろう。子供らしい感情だ。 ――達也、おさかなさんは、水の中でしか生きられないんだよ。 見てごらん、と言われて視線を落としたら、掌の中の魚はぐったりと動かなくなっていた。 泣く泣く水たまりの中に戻してやると、小さな魚は嬉しそうにぱしゃりと跳ねた。 ――達也は、ずっと水の中にいると息ができなくて苦しくなるだろ? おさかなさんも同じなんだ。水の中から出てしまうと、息ができなくなるんだよ。 | |
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2010.09.02 |
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