Today is glorious, | |
even if we don't have our future. | |
松岡は探し人の背中を、院内の外れ、 深緑色のパジャマ姿で車椅子に乗っており、彼の楽しみの一つである、紫煙の立ちのぼる嗜好品を味わっている。 愁いを帯びた横顔は夜の街のバーの片隅とかだったら格好もつくのだろうが、それが病院の中では、すべて台無しである。 「城島さーん! 投薬の時間ですよー!」 近づいていくのが面倒で、松岡は口に手を当てて叫んでやった。 深緑色のパジャマの彼は、胸ポケットから取り出した携帯灰皿にそれを仕舞うと、ゆっくりと車椅子をこちらへ回転させ、車輪を漕いできた。 「もうそんな時間? ここ、近くに時計ないからわからんかったわぁ」 目尻に皺をたくさんこさえてふわぁと笑う様子は初めて会ったときから変わらないけれど、当時と比べると頬は少しこけ、体は細くなり、こうして車椅子を使うようになっている。 「腕時計くらい持ち歩いてくださいよ。あなた、それでなくても院内をふらふらしてて探すの手間なんだから」 「大丈夫や……車椅子じゃ、行けるとこ限られてくるからな。松岡先生ならすぐ、僕のこと見つけてくれるやろ」 にこりと微笑む彼――城島の言葉にとっさに頷けなくて、松岡は黙ってしまった。 まだ車椅子の操作に慣れなくてゆっくりと進む城島の隣を、ただ、寄り添って歩いた。 約1年前のある日。 院長の息子で、同じ医大を卒業した先輩である国分に呼び出された松岡に、ぽいっと渡されたカルテに記されていた患者――それが城島だった。 「何、これ?」 訝しげに国分を見遣ると、彼は眉間に皺を寄せた仏頂面のまま口を開く。 「お前、ターミナル・ケアに興味があるとか言ってたよな?」 「え、ああ……うん、まぁね」 ターミナル・ケア――終末期医療とも呼ばれるそれは、病や老衰により死期に面した患者に対して、延命を目的とせず、身体的・精神的苦痛を軽減し患者自身の生を尊重して行う看護のことである。 精神科医である松岡は、確かに在学中からターミナル・ケア、Quality Of Lifeというものに興味を持って勉強をしていたが……。 「彼はそれを望んでる。……医療面でのサポートは俺が責任を持つけど、彼の精神的なサポートは松岡、お前に一任したい」 城島という患者は、現在の医学では明確な治療法がない難病だと診断されて、余命はおよそ2年だろうと宣告された。それを告知されたとき、「延命のための治療は要らない、平穏に生活し静かに逝きたい」と言ったのだという。 しかし、何せこの病院では前例のないこと、その話は院長にまで通達された。 そしてその話が国分に回り、松岡まで巡ってきた、ということだ。 「俺はいいけど。……珍しいよね、太一くんがそんなの引き受けるなんて」 手術の腕は良いが勤務態度はお世辞にも真面目とは言いがたく、手術以外の医療行為にはほとんど興味を示さない、というのが松岡の知る国分の質である。 終末期医療に欠かせない緩和医療は、外科手術にすべてを懸ける国分に言わせれば「退屈極まりない」ものの類であるはずなのだが。 国分はギュッときつく眼を瞑り、細く震えた息を吐き出した。 「城島茂――彼は俺の…………腹違いの、兄なんだ」 病棟の一番端に設けられた城島の病室で午前の投薬を終えると、城島は中庭に行く、と言い出した。 「今日は智也が通院してくる日やから、達也も来とるはずやわ。松岡先生も行きません?」 まるで孫に会う祖父母のように、にこにこ、そわそわしている城島が微笑ましくて、思わずくすりと笑いが漏れてしまう。 愛煙家である彼が、ターミナル・ケアの患者であることを考慮して一日3本までが許されている煙草よりも楽しみにしていること――それが、病院でできた大切な友人に会うことだ。 「はい、一緒に行きましょう」 松岡が城島の体を支えながら、車椅子に座らせる。 城島は必要以上の介助を望まないので、松岡が手伝うのはそこまでだ。腕は不自由なく使える今は、車椅子を漕ぐ操作は基本的に城島は一人で行う。 念のため城島が羽織るものを腕にひっかけて、松岡は彼の後に続いた。 ソメイヨシノは満開を過ぎ、中庭の芝生にはピンク色の花びらが散らばっていた。 端の方に申し訳程度に設置されている古びたバスケットゴールの下に、車椅子に乗った青年の姿が見える。 彼は城島と松岡の姿を見とめて大きく手を振った。 「茂くん、松岡先生、ひっさしぶり〜!」 「達也!」 城島は、彼にしては珍しいくらい大きく高めの声を上げて、車椅子で彼に近づいていく。 車椅子の青年――山口達也は、眩しいくらいの笑顔で城島の肩に手を回し、ぽんぽんと叩いた。 「茂くん、話には聞いてたけど、俺とお仲間になったんだねぇ。どう、もう慣れた?」 「乗りはじめて一ヶ月も経たんから……まだ、不安定な道は慣れへんわ」 くしゃりと苦笑した城島に、山口は明るく「練習がてら、また俺の試合観に来てよ」と声をかける。 城島と山口は、松岡が城島と知り合う前――つまり、城島がまだ一般病棟にいたころに知り合ったという。 交通事故に巻き込まれ両下腿を切断した山口は、退院して随分経つ今は、働きながら車椅子バスケットボールの選手として活躍している。 「松岡先生も、茂くんの付き添いでお願いしますよ?」 「はいはい、そのときはお供させてもらいますよ」 松岡がおどけた返事を返し、三人がそろって朗らかに笑った。 山口が車椅子バスケットボールをはじめたきっかけを作ったのが城島で、山口が所属するチームにも彼の知り合いがいるということで、松岡や国分も、城島と一緒に何度か試合を観に行っている。 車椅子バスケットボールは健常者でもできるスポーツなので、松岡はまだ車椅子を使っていなかった頃の城島に「城島さんはやらないんですか?」と訊ねたことがある。 城島は穏やかに微笑して、「僕は運動、からっきしあかんからなぁ。観てるだけで楽しいんや」と言っていた。 もっとも車椅子を使用しはじめた今は、他の筋力も衰えはじめているので、余計に運動どころではないだろうけれど。 「茂く〜ん、達也く〜ん、マボ先生〜!」 大きくよく通る声が中庭に響く。 3人が眼を向けた方には、隣を歩く国分の腕を軽く掴んで一歩一歩、ゆっくり歩いてくる長身の青年――長瀬智也がいた。 彼の瞳は非常に澄んで綺麗だが、ほとんど視力を失いかけている。 視神経に異常があるという診断結果が下されたのだが、詳細な原因はわからず、満足な治療も手術もできなかった。 長瀬がこの病院にいた期間は長くなかったのだが、国分が随分と彼の治療に対して尽力していたことが縁で、城島や山口、松岡と知り合いになった。 現在は主に歩行訓練や点字の勉強のできる施設へ通っていて、通院してくるのは一ヶ月に数回程度だ。 「智也、元気そうやな」 城島は目の前まで来た智也に向かって右腕を伸ばす。 眼の焦点は微妙に合っていなかったが、長瀬はその手を一度できゅっと掴んだ。 「茂くん。……そっか、車椅子になったんだね」 「そうやねん。智也はどうや? 最近、調子は」 「調子いいよ。まだ、ぼんやり物の形はわかるんだ。あっ、だいぶ点字打てるようになったから、今度皆に手紙書くね!」 「そうしたら、俺らも点字勉強しなきゃだなぁ」 横から山口が口を挟むと、長瀬は「あ、達也くん!」と反応し、茂のときと同様、差し出された山口の手を掴む。 その間に、長瀬の介助をしていた国分と松岡が入れ替わり、国分が城島の車椅子にゆっくりと近づいた。 ゆるりと唇に笑みをのぼらせる城島とは対照的に、唇を噛んでへの字を形づくる。 「太一、忙しぃしてるんやろ。ちゃんと休めてんのか? 体大事にしぃや」 「……あんたに言われたくないよ」 ぶっきらぼうな答えを返しながらも、国分は城島の後ろに回って車椅子のハンドルを握り、静かに押し出した。 必要時以外の手助けを拒む城島が、このときだけは、何も言わず国分に押してもらう。 ――それが複雑な兄弟の、ひとつの大きなコミュニケーションなのだ。 「第3病棟の方の桜はまだ散ってないから、そっち観に行きましょうか」 「おっ、いいねえ」 「ギリギリのお花見っすね!」 松岡の提案に、山口と長瀬が乗り気の返事をする。 にっこり笑って「ええなぁ」と言った城島の車椅子を、国分はすぐさま第3病棟の方へ向き直らせた。 その二人の後に、松岡の腕を掴みながら歩く長瀬と、自分の手で車椅子を漕ぐ山口が続く。 中庭を出て建物の外周をぐるりと回り、その桜の木の前に出た。 やわらかそうな雲の浮かぶ晴れた空に、風に吹かれて桜の花びらが雪のように舞っている。 意図したわけではないのに、5人が空を仰いだタイミングはぴったり重なっていた。 「綺麗やなぁ……」 「うん……そうだね」 城島の呟きに、国分の相槌が自然に返った。 「智也、見えてっか?」 山口が問うと、智也は「うーん、何となく」とどっちつかずに答えたが、すぐに彼らしい明るい笑顔を浮かべる。 「でも、心の眼ではちゃんと見えてます! 綺麗な桜吹雪!」 「何だよそれは」 松岡が思わず吹き出したのを合図に、5人は皆けらけらと笑った。 果てしなく広がる空は遥か青く、どこまでも美しかった。 | |
2010.04.21 |
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