われ呼ばふ声は碧く


 仰いだ空に、白い帽子がひゅうっと舞った。
 そして次の瞬間、空中に踊り出る達也の躰――

 思わず彼の名を叫んだような気がするけれど、きちんと苗字で呼べただろうか。
 とっさのことだったのでちょっと自信がない。

 派手な水音を立てて達也の躰が海に沈み込んだ。
 子どもたちが飛び込んでいるのだし危険性はないとわかっていても、達也の姿が見えない一瞬が僕にとっては数分もの時間に思えた。

 ざばりと水を掻き分けて達也の顔が現れると、締めつけるような心臓の強張りがふわりとほどける。

 達也が濡れた髪を無造作に掻き上げると、のぞく眼は悪戯っ子そのもの。
 いつもは対等に見ているのに、そういう少年っぽい表情や仕草を見せられると、「あぁこいつは僕より年下やったなぁ」などと改めて思ってしまう。

「おいで」

 われ呼ばふ声。
 ――尻込みする僕をさらってしまいそうなほど力強く。
 ――不安に強張った心を包み込むように優しく。

 泳げない僕は「行くかいな」と否定の返事をするしかない。

 確かに海を美しいと思う。
 けれど、カナヅチの僕が海に惹かれる一番の理由は、きっと達也だ。
 こんなにも眩い笑みを浮かべてしまうほどに達也を虜にする海だから――僕も自ずと心惹かれてしまうのだと思う。

 まだ春先だというのに健康的に焼けた肌色はまさに海に似つかわしい。
 屈託のない笑顔の輝きはまるで、陽光を受けてきらめく水面のよう。
 こんなにも海の似合う男が昔、水が苦手だったのだと言っても誰が信じよう。

「しげ」

 大の字になって仰向けに浮かんでいる達也が手招きをしている。
 僕は達也を見下ろす位置にしゃがみこんだ。

「早よ上がり、風邪ひいてまうで」
「俺が受け止めたげるから、しげ、飛び込んでみなよ」
「昨日、僕の脚引っぱった奴に言われてもなぁ、信用できんわ」

 達也が僕に苦手なことを強いることは絶対ないから、冗談で返す。
 軽く笑った達也は、軽く水を掻いてコンクリートの岸に寄って来て海から上がった。
 水を吸って濃紺に色を変えたツナギ。
 ぽたぽたと髪から、頬から、指先から、したたり落ちる滴。

「ほんまにツナギのまま飛び込むとは思わんかったわ……」
「ごめんごめん、すっごい楽しそうだったからつい」

 用意のいいスタッフがバスタオルと着替えを持ってきてくれる。
 ツナギの替えはないので乾かすしかなく、撮影は問答無用で休憩となった。
 予定を狂わせたわけだから達也はスタッフに謝って回っているが、それを迎える皆は笑顔だ。
 僕らとは長い付き合いであることに加えて、達也の飛び込む姿に慌てる僕という画が番組的にオイシイから、というのも一因だろう。
 そして何より“気の長さ”がこの番組の特性である。(そうじゃないと、ソーラーカーや村などという企画がここまで育たなかったはずだ)

 さきほど達也が登っていったコンクリートの壁のようなところに軽くもたれてぼんやりしていると、バスタオルでがしがしと頭を拭きながら達也が歩み寄ってきた。

「あなた疲れてない、大丈夫? 座ってたら?」
「ん……大丈夫や」

 そう、と呟くように言った達也は、ふいと首を海の方へ向ける。

 ざざ、ざざ、と波の打ち寄せる音。
 遠くで鳴く海鳥の声。
 あたたかく降り注ぐ陽射し。

 ――海は、彼を呼ばふのか。

「……達也」

 小さく呼んだ僕の声に、達也は違わず振り向いて唇をほどく。

「なに?」

 海が彼を呼ばふとも――僕が呼べば、答えてくれる。
 彼はずっと僕の隣にいるのだ。
 それは決して揺らがぬ真実。

「ん……何もない、呼んだだけ」
「何だよそれ」

 はにかんだ達也の表情が少しくすぐったかった。

 スタッフが「そろそろツナギ乾きそうでーす!」と声をかけてきて、僕たちは揃って返事をした。


2010.05.13



TOP