The flowers which are delighted at coming of autumn will bloom brilliantly.
「ねえ、城島さん」 夜の検診にやってきた松岡が、ふと思いついたように声を上げた。 「明日が何の日か、知ってます?」 松岡が担当している患者である城島は、ゆるりとひとつ瞬きをする。そして黙ったまま、壁にかかっているカレンダーに眼を向けた。 それはちょうど昨日のこの時間、松岡の手によって前月分が破り取られたばかりだ。毎月美しい里山風景が楽しめるこのカレンダー、今月は山の連なりとかやぶき屋根の家、そして黄金色の稲穂がゆれる田圃が写されている。 9月2日。 夏と秋の狭間。 残暑が厳しいと毎日飽くことなくテレビが言っているけれど、それでも8月の中旬と比べればずいぶん夜は過ごしやすい気温になって寝つきやすい。 現に今、城島の病室に取りつけられているエアコンは稼働しておらず、網戸になった窓の傍に扇風機が置かれていて、涼しい風を室内に届けていた。 9月2日。 それは城島にとって、しっかりと憶えのある日付だ。 「太一の誕生日……やなぁ」 城島の口からこぼれた台詞に、松岡はほっと胸を撫で下ろした。 とても似つかぬ外見の城島と国分だが、2人は異母兄弟なのである。松岡はその事情について、国分からちらと聞きかじっただけだが、いろいろと複雑らしい。 そのためか、決して“仲の良い兄弟”とはいえないけれど嫌い合っているわけでもない、不器用な2人の関係を、松岡は少なからず心配しているのだった。 誕生日を憶えている、ということは、相手に対し並以上の関心は持っている、と松岡は判じた。 「何かお祝いするつもりはあるんですか?」 わざと肯定的に質問をするが、城島から返ってきたのは、彼が得意とする感情の読み取りにくい曖昧な微笑だった。 「……今まで、やったことないですから……」 ふっと伏せた眼に浮かぶ寂寞に、松岡は憶えがあった。 松岡が国分と同じ大学に通っていた頃――、ひょんなことから家族の話になったことがあった。 一人っ子である松岡は兄弟姉妹に憧れたことを話し、国分に兄弟姉妹の有無を問うた。 「兄が、いる。遠いところに……」 そのとき国分が見せた眼が、今の城島の眼とよく似ていた。 あの頃は国分の言う“遠いところ”の意味がわからず、国分の兄は亡くなったのかもしれないなどと勝手に考えていたこともあった。 けれど、国分の兄たる城島を知って、その意味が少しはわかる気がしていた。 国分と松岡が大学の医学部に在籍していた当時、離島の診療所で働いていて国分家とは完全に没交渉となっていた城島との物理的な距離。 そして、物理的な距離がなくなったはずの今でも、近づけない心の距離。 城島の精神面のケアにあたっている松岡は、彼の傍でその感情の機微に心を配ることも仕事の一環である。そうして彼の感情の動きを追っているうちに、わかってきたのだ。 城島の心はとても強靭な面も確かに在ってそう見えるのだが、同時にひどく脆く繊細で、臆病なのだ。 殊、国分に関係することには。 大切で、壊したくなくて、だからどう接すればよいのかわからなくて手を伸ばせない――。 松岡は大きなてのひらを、城島の猫背にそっと乗せた。 骨ばった線の細い体つきが唯一の、城島と国分の共通点かもしれない、と心の中で思いながら。 「一緒に何かしましょう。時間もないので、ささやかなお祝いになるでしょうけど」 城島は困惑を宿した微笑みを返しただけだったが、松岡にとってはそれが充分な答えだ。 何故なら彼の眼の色からは、明らかに安堵が見て取れたからだった。 ◇ 翌日の午後9時を回った頃、国分は城島の病室に向かっていた。 国分が随分と遅い昼食を院内に与えられた個室で摂っていたところに松岡が顔を出して、「今日の夜、城島さんの病室に来てほしいんだけど」と神妙な顔つきで話したからだ。 何か気になることがあるのかと問うたが、松岡はただ、大切な話があるのだとだけ言った。城島も交えて3人で、じゃないと意味がないとも。 城島が延命のための治療を望んでいないので、彼の病はとろとろと進行し続けている。 彼の命を救うことは、悔しいけれど今の医療技術では限りなく不可能だ。けれど、その進行をできるだけ食い止める治療や薬はいくつかある。 でも城島は、それをすることさえ許していない。 国分に許されているのは、城島が心安らかに毎日を過ごせるよう、病に伴う苦痛を取り除くことだけ。城島を蝕む病そのものへの手出しはできないのだ。 城島自身が望んだこととは言え、ただ刻一刻と己が命が削られていくのを感じながら生きるというのは、どんな気持ちなのだろう、と思う。国分には到底想像することができなかった。 昔から考えの読めない相手である。未だに苦手意識は消えない。 だから、そんな国分では気づけないことに松岡が気づいて、何か進言することでもあるのだろうと考えていた。 『城島茂』という名前プレートが1つだけかかった個室の前で立ち止まり、軽くノックをする。 松岡もおそらく中にいるだろう。 「茂くん、入るよ」 スライド式のドアを開ければ、いつも通りの殺風景な、物の少ない病室があるはずだったが――国分の眼に飛び込んできたのは、天井から吊り下がった、幾重にもなる色紙の輪による飾りつけだった。 「ちょっ……何これ、何やってんの?」 国分は、窓際のベッドに入って上体を起こしている城島とその傍の簡易椅子に座る松岡のもとへずかずかと歩み寄る。と、2人に何かを向けられる。その正体を確認しないうちに、パン、パンッという破裂音が上がった。 「うわっ!?」 自分の躰に降りかかってきた細いリボンの束とかすかな煙の匂いで、それがクラッカーだったのだと知る。 「太一」 城島が名前を呼んだ。 いつも見上げていた、城島の薄い茶色の瞳。けれど今は、それが下方にある。 どことなく緊張したような微笑を湛えた城島は、サイドテーブルから何かを持ち上げて太一の方へ差し出した。 「誕生日、おめでとぉ」 白いデザート皿に載っているのは、一切れの抹茶カステラ。その上にホワイトチョコのプレートがあって、決して上手とは言えない字で“HAPPY BIRTHDAY 太一”と書かれている。そしてピンク色のコスモスが一輪、飾りとして添えられていた。 「それ、前に太一くんが意外と美味しいじゃんって言ってた店のカステラ。ケーキは駄目でもこれなら大丈夫でしょ? 誕生日って言ったら、やっぱチョコプレートがないとね、ってことで載せてみたんだけど、太一くん食べないだろうから俺と城島さんで食べるよ」 驚きやら何やらで手を伸ばせないでいる国分に、松岡が言い添える。 「このコスモスは、外出許可もらって城島さんと一緒に買いに行ったんだよ」 松岡の視線が向いた方向を見てみると、コスモスの花束が綺麗に花瓶に活けられていた。 「誕生日プレゼント……いうても、何をあげたら太一が喜んでくれるんか、僕にはわからへんかったから……。綺麗な花やったら、きっと、太一も嬉しいんちゃうかなって……思って」 城島の眼がわずかに揺れる。それは、感情の揺らぎ。 ――幼い頃は、この硝子のような眼には感情がないのだと思ったこともあったくらいだったのに。 太一は震えてしまいそうになる手を制しながら、城島から皿を受け取った。 「ありがとう。……茂くん」 その途端、城島はふわりと唇を緩め、安堵をにじませて笑う。 城島の感情がわかりやすく感じられることが、太一には不思議だった。あの頃の自分が幼すぎて気づけなかったのか、お互いが大人になったのか……正しい理由はわからないけれど。 城島に残された時間は少なすぎる。 それでも太一は素直に嬉しいと思った。 城島と歩み寄れるための時間が、少しでも与えられたことを。 きっと今からでも、遅すぎることはないから―― 「松岡。このチョコレート、3等分して」 ずいと皿を突き出すと、松岡は眼を真ん丸にした。 「え、太一くん、チョコ食べるの?」 国分はその質問には答えずに、城島へ視線をやる。 「……これ、書いたの茂くんだろ。相変わらずのへったくそな字」 わざと憎らしげに言ってみる。すると城島の表情がちらりと挑戦的なものになり、生きた瞳が国分をはっきりと映した。 「へったくそ、で悪かったなぁ」 何事も軽々と国分の上を行った城島だったが、どうにも字のバランスだけは上手く整えることができなかったのだ。 松岡が3等分したチョコプレートを、それぞれの皿に分ける。城島と松岡の皿にも、コスモスの花がちゃんと添えてあった。 “太一”と書かれた部分のチョコプレートがきちんと国分の皿に載っているあたり、松岡の芸の細かさがうかがえる。 ほろ苦の抹茶カステラと共に口に入れたチョコレートはやはり太一には甘すぎたけれど、今日という日には似つかわしいのかもしれない、と思った。 | |
2010.09.01 |
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