いつかを願った指先



 レッスン室の中では、数十人の中学生から二十歳前後の少年がダンスレッスンに励んでいる。
 その中の一人である山口達也は16歳、高校2年生。まだ事務所に入って間もないが、運動神経もリズム感も良く、ダンスの基礎をマスターするのにあまり苦労はしなかった。
 それに比べ――。
 達也はちら、と自分の隣にいる少年に眼をやった。
 城島茂、17歳、高校3年生。達也よりずっと長く事務所に所属しているはずの彼のダンスは、どうにも覚束ない。
 奈良と東京を行ったり来たりしていてあまりレッスンを受けていなかったのか、はたまたセンスに恵まれていないのか――課題とされていたダンスの振りも憶えられていないようで、前の少年を見てから踊るのでテンポがずれている。
 彼なりに懸命にはやっているようだったが、その表情は、彼にとっては地獄のようなこの時間が早く終わることだけを願っているようだった。


 講師がレッスンの終わりを告げて部屋から出て行くと、とたんに少年達は元気にざわめき出す。
 そんな中、達也と茂はというと、自分の鞄を取り上げて脱兎の如くレッスン室を飛び出した。
「山口、急ぐで」
「わかってる、城島くんこけたりしないでよっ?」
 空いていたレッスン室のドアの陰に隠しておいた楽器ケースをそれぞれ背に追い、バタバタと廊下を駆けて行く。
 今日はスタジオで練習できる貴重な日なのだ。
 楽器店に併設されている小さなスタジオだけれど、二人にとっては充分すぎる場所だった。
 ダッシュで駅の改札をくぐり、ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ二人は、空いた車内の端の席に座る。
 上がった息が整わないまま、茂は鞄の中からノートを取り出して広げた。そこには、二人がコピーしている楽曲のコード進行が書かれている。
「城島くんは真面目だねえ」
 陸上部で鍛えている達也の呼吸に乱れはない。
 軽口を叩いてノートをのぞき込んだ達也に、茂はちらりと視線を向けた。
「山口はもう憶えたんか?」
 城島の口から自然に紡がれる関西の訛りを聞いて、あぁやっぱりこっちの方がいい、と達也は思う。
 第一印象は決して良くなかった。
 無口で、言動が妙にすかしていて、何より日常身に着けている分厚い眼鏡からして周りを拒絶しているかのようで――。
 でも、ギターを奏でるときはびっくりするくらい無邪気な笑みをこぼすのだ。
 無口なのは、関西訛りのイントネーションが混じる話し言葉をあまり他人に聞かせたくないという理由が大きいようで、打ち解けた達也の前では他愛無い話も交わすようになっている。
「ん〜まぁ、だいたいね」
「だいたいじゃあかん……ベースは正確にリズム奏でてくれんと」
「俺、練習嫌いだもん。いいじゃん、楽しけりゃ」
 茂はやや非難がましい目線で達也を見たが、何も言わずに口を閉じてノートに眼を落とした。

 茂は真面目で凝り性、神経質のきらいがある。
 対する達也は楽観的で大らか、器用貧乏なので特に何かにのめりこんだことはない。
 一見するだけで正反対と思える性格なのに――いつの間にか、達也は茂と過ごす時間を何より心地よく感じるようになっていた。
 友達につられて、楽器が弾けたらカッコイイなと何気なく始めただけだったのに。
 体を動かすことは総じて好きなのでダンスももちろん面白かったが、今はそれ以上に、茂と一緒に楽器を演奏することを楽しいと感じていた。

 電車内のアナウンスが二人の降りる駅を告げる。
 ノートを閉じて鞄にしまいはじめる茂の横顔をぼんやり見やりながら、達也は楽器ケースを抱え直した。



 アンプを通して響くギターの音に陶酔していると、ベースの重低音が重なってきてハッとすることがある。
 手慰みに爪弾いていたコードに達也がベースの音を合わせてきて、「これ、城島くんが作った曲? 歌詞とかないの?」と訊ねられて逆に驚いてしまったこともある。
 ギターを弾くことはこれまで、茂の一人遊びに近いものだった。高校の先輩に頼まれてバンドで演奏し、ギターの魅力に取りつかれたものの、自分でバンドを組みたいと思ったことは今までなかった。ただ、ギターの音色に独りで浸っていれれば良かった。
 けれども達也のベースは、茂が考えているよりも親密に、茂のギターに寄り添ってきた。
 独りで弾くより、二人で合わせて演奏した方がずっと面白いのだと茂に気づかせたのだ。
 空気中に余韻が残る中、二人はそろって壁にかかった時計を見上げたので、どちらからともなく笑い合う。
「そろそろ片付けなな……」
「あっという間に時間すぎちゃったね」
 達也が名残惜しげに弦を弾く。
 ピックを使わず自らの指で奏でる達也のベースの音が、茂はとても好きだ。
 願わくば、自分のギターの音色に絡み合ったそれを、いつまでも聴いていたいけれど――。
「いつか、先輩の後ろで演奏してみたいよね、こうして」
 達也の口から思いがけない言葉がこぼれて、茂はその意味を呑み込むまでに十数秒の時間を要した。
「バックバンド……ってことか……? でも山口は、ダンスできるやろ……」
「ダンスも楽しいけどさ、どうしても大勢の中の一人じゃん」
 でも、俺と城島くんがベースとギター抱えてバンドとしてステージに立ったらそうじゃないでしょ、と言って、達也はにこやかな笑みを浮かべる。
 ダンスグループとしてデビューすることが当たり前とされる事務所ではあるが、バンド形態でデビューした先輩も存在する。
 達也という練習仲間を得て――正直、一度も考えたことがない、と言えば嘘になる。
 茂は自分自身、ダンスの才能があまりないのは自覚しているので、そういうのもいいなぁと、願望交じりに夢想くらいはしたことがある。ただ、達也のダンスセンスは卓越していたので、あくまで“夢想”で留めていたのだが……。
「バンド、なぁ……。二人やと、ちょっと格好つかんけどなぁ」
「ツーピースバンドなんてけっこうあるでしょ? まぁね……バンドと名乗るからには、やっぱりドラムメンバーは欲しいけどねぇ」
「キーボードなんてあったら、もっとえぇんやけど」
「いいねえ。ヴォーカルは?」
「山口が歌ってくれたらえぇやん」
「俺ー? 歌うの嫌いじゃないけど、ヴォーカルって柄じゃないから。別にヴォーカルも必要だよ」
 ふと、自分たちの話している内容が途轍もなく非現実的なことのように思えて、茂も達也も苦笑して口を閉ざしてしまった。
「……阿呆な話してんと、片付けよか」
「……うん、そうだね」
 茂はギターとアンプを繋いでいるコードに手をかけ――けれどコードは引き抜かれず、茂の左手はギターのネックを掴んでいた。
「もう一曲だけ……」
 そう言って茂がコードを奏で始める。
 手慰みのコード進行。名も無き小さなメロディ。――あの日とまったく同じではないだろうけれど。
 達也が納得の表情を浮かべてベースを構え直し、弦を弾き出す。

 口では語れないことは、音楽で語ろう……それならばきっと許されるから。

 遠き未来のいつの日か、この小さなメロディを、達也と共に奏でる日が来ればいいと茂は思った。  



2010.11.03



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