◇ はじまりの一歩



 ちょうど昨日、今年一番の桜の開花が観測されたとニュースで言っていた。
 春の訪れを確かに感じさせるぽかぽか陽気。
 梯子(はしご)の上で額の汗を拭った達也は、下で窓を拭いている青年に声をかけた。
「しげー、あれとって、あれ」
 ん? とこちらを見上げた青年――茂は、達也の指さす方へ視線をやり、よいしょと腰を上げた。
「これかぁ?」
「そう、それ」
 茂が両手で持ち上げたのは、達也が今から取り付けようとしている看板だ。
 それを受け取った達也は金具の具合を確かめてから、扉の上に引っかけた。

 『喫茶 TOKIO』

 木製の看板はすべて、達也の手作りだ。
「よーし、完了っ!」
 達也は梯子を下りると、眩しげに眼を細めてその看板を見上げた。
 その隣に、そっと茂が寄り添って立つ。
「……ありがとうな、達也」
 ぽつり、とこぼされた、そのまま空気に溶けてしまいそうな柔い呟き。
 達也はふっと短く息を吐いて、自分より少し高い位置にある茂の頭をくしゃくしゃやった。
「ばぁか。お礼なんて要らねーよ。しげについてくって、俺自身が決めたんだから」
 あなた放っとけないしね、という達也の言葉に、茂はまた、聞こえないくらいの声音で「ありがとう」と言った。


  ◇


 翌日も気持ちのよい快晴だった。
 しかし、児童養護施設『おあしす園』の玄関前では大量の雨が降っていた。
「ひっ、く……茂兄ちゃん、行かないでよぅ……達也兄ちゃぁん……」
 茂の右腕をがっちり掴んだまま、ぼろぼろとこぼれ落ちる涙を隠そうともしないのは、つい先日小学校を卒業し、この4月で中学1年生になる智也。
 年齢の割りに上背があり、整った容貌を持っているのだが、今は涙と鼻水でぐちゃぐちゃである。
 茂の左側には、中学3年生になる昌宏。
 さすがに涙は見せないものの、この中で一番茂に懐いていたのが昌宏なので、ぎゅっと唇を噛みしめてうつむき、茂の袖を握りしめている。
「いい加減泣きやめよ、智也っ! 出て行くったって、すぐ遊びに行ける距離じゃんか!」
 泣きじゃくる智也をたしなめているのが、智也と昌宏の兄貴分である高校2年生になる太一だ。
 けれどそう言う太一も、感情を抑えているのか少し声が震えている。

 今日は茂と達也が『おあしす園』を旅立つ日なのだ。
 茂は現在20歳、達也は19歳。
『おあしす園』の規定では20歳までには園を出なければならないことになっているので、本来ならば茂は昨年の誕生月である11月までには自立していなくてはならなかったのだが、特別に期間が延長されていたのである。
 もちろん、それにはきちんと理由があった。
 茂は高校在学中からとある喫茶店でアルバイトを始め、卒業後もずっとその店で働いていた。
 その喫茶店のオーナーは昨年末で店をたたむことを決めたのだが、その際、店舗をそのまま茂に譲るという話になった。
 ちょうど成人する歳で、自分の店を持つことが夢だった茂は、その話をすんなり了承。
 店の改築など諸々の猶予が考慮され、卒園が今の時期になったのである。

「そやで、いつでも遊びに来たらええんやし。な、だからそんな泣きなや、智也」
 茂は困りきった表情で、ぐずぐずと鼻をすすって泣き続ける智也の頭を撫でている。
 静観していた達也は、智也があまりに泣き止む気配を見せないので、ぽんぽんとあやすように智也の背中を叩いてやった。
「智也ー、お前、兄ちゃんになったんだから。あんまり泣いてっと智と翔に笑われちまうぞ?」
 太一の後ろで、寄り添ってじっと茂と達也を見上げている小柄な二人は、小学校5年生になる智と4年生になる翔。
 約2年の間、『おあしす園』の末っ子だった智也に初めてできた弟なのだ。
 二人は『おあしす園』に入ってきてまだ間もない。だから茂と達也が施設を出て行くことに対して理解が及んでいないらしく、眼をきょときょとさせて他の5人を見つめていた。
 けれど太一、昌宏、智也の3人は、3年以上この施設で、茂と達也と共に生活してきたのだ――それこそ本当の兄弟のように。
 智也はきゅっと唇を噛みしめ、ごしごしと無造作に腕で顔をぬぐった。
「もう、泣かないっ……、泣かないから、達也兄ちゃん」
「ん?」
 懸命に堪えるものの、涙腺が緩んでしまっている智也の眼にはすぐ涙が盛り上がる。
「絶対、絶対っ、茂兄ちゃんと一緒に遊びに来てねっ!? 僕も絶対、会いに行くからっ!!」
「おう、約束だ」
 そう言って達也は、右手を握り、小指だけを立てた状態で智也の前に差し出した。
「ゆびきりすんぞ」
「うんっ!」
 涙をこぼしながらもぱあっと表情を明るくした智也が、達也の小指に自分の小指を絡ませる。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそついたらはーりせんぼんのーます。ゆびきった!」
 達也とゆびきりした智也は、「茂兄ちゃんも!」と小指を立てた右の拳を差し出してくる。
 茂はにっこり笑って、智也と指を結んだ。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそついたらはーりせんぼんのーます。ゆびきった!」
 二人とゆびきりをした智也が、嬉しそうに「ゆびきりしたからね! 約束だからね!」とはしゃぐのを見て、昌宏が茂の袖をくいくいと引っぱった。
「茂くんっ!! 俺も、ゆびきりっ……」
 泣くまいと表情をこわばらせた昌宏に、茂はいつもどおりの柔らかな笑顔を向ける。
「ええよ、昌宏もゆびきりしよか」
 茂と昌宏がゆびきりするのを横目に見ながら、達也はちらっと太一を振り返る。
「太一もするか? ゆびきり」
「しないよっ!」
 あいつらと一緒にすんなよっ、と怒鳴る太一に対し、達也は大らかに笑った。


 はじまりの一歩を踏み出して。

 さあ――共に、歩みはじめよう。
 

2010.03.25


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