やっぱり甘いホットケーキ



「ただいま〜……」
 『おあしす園』に帰ってきた智也は、玄関の端に揃えてある見覚えのある靴を見て、ぎくりと心が強張った。
 ――茂が、来ている。
 智也はなるべく足音を立てないように廊下を歩き、階段を上ろうと思ったのだが。
「あ、トモ兄! おかえりぃ〜!」
 バタバタと騒々しい足音とともに二階から下りてきた小学6年生の雅紀が、屈託なく大きな声をかけてきてしまった。
 居間に続くドアが開いて、園長先生と茂が顔を覗かせる。
「お帰り、智也」
 柔和に微笑む茂に、幼い頃なら迷いなくまっすぐに飛び込んでいっただろうに。
 智也はふいと視線を逸らし、もごもごとただいまの挨拶を返す。

 最近、茂はたびたび『おあしす園』にやってくる。
 今までだってときどき遊びにきてくれていたのだけれど、それとはまったく事情が異なるのだ。
 智也は現在、高校1年生。――昌宏は、高校3年生。
 高校卒業後、昌宏は板前見習いとして働くことが決まっている。
 だから話し合いに来ているのである。
 昌宏が『おあしす園』を出て行く時期についてを――。

 智也は、昌宏はきっと高校卒業と同時に『おあしす園』を出るだろうと思っている。
 【喫茶TOKIO】の二階にある自分の部屋に移ることを、彼が何より楽しみにしてきたことを一番傍で見てきたのだから。
 智也自身、高校を卒業したら、茂と達也、そして太一と昌宏の待つあの家で生活するのだろうと、そのことを疑ったことはないし、そうしたいと希望している。
 けれど――。
 何故か、心の中がもやもやするのだ。
 茂の笑顔を見るとそれがよけいに増幅して、居心地が悪くなってしまう。

「智也、明日の昼ごはん、何か食べたいもんないか?」
 唐突にそんな質問をされたが、よく意味が呑み込めなかった智也は、とっさに答えを返せない。
「え……?」
「明日土曜日やけど、昌宏も園長先生もおらへんのやって。だから僕が、みんなの分のお昼ごはん作って持ってこようと思ってな……」
「やったあ、明日は茂兄ちゃんのごはん!?」
 一番に嬉しそうな声を上げるのはやはり雅紀だ。
 居間のテーブルで揃って宿題をしている智、翔、和也、潤も、顔を上げてこちらを見ていた。
 五人とも、智也が茂との間に感情の壁を感じていることに気づいている。――全員、嫌でも人の気持ちに敏感にならざるをえない状況におかれたことがあるから。
「茂兄ちゃんのごはん、ひさしぶりだから嬉しいな」
「うん、楽しみだね!」
 ともに小学5年生の和也の潤が、顔を見合わせて笑い合う。
 特に聡い和也は、場の空気を和ませようと考えてそのような発言をした。それを感じて、潤も同調したのだ。
「トモ兄、何が食べたい?」
 小学6年生の翔は、気遣いをしのばせた明るい声で問う。
 普段から口数の少ない智は、翔の隣で、智也をじっと見つめていた。
 ――その瞳は、まるで智也の感情を見透かすかのようで。
 優しい茂に対してひねくれている自分自身が、聞き分けのない子どものように思えてしまった。
「――っ!!」
 もやもやが心を支配して、居たたまれなくなって、智也は踵を返した。
「智也!」
 茂の声が追いかけてきたけれど、聞こえなかったふりをした。


 外はもう、夕闇。
 街灯のが点灯して、道路を照らしはじめている。
 とっさに『おあしす園』を飛び出してしまったものの、行く当てもなかった智也は、近くの公園に足を踏み入れた。
 ただ少し、独りになりたかった。頭を冷やして考えたかった。
 けれどその公園は、茂と――『おあしす園』の皆とよく遊んだ場所である。そこかしこに思い出が溢れている。
 智也は小さく息を吐いた。
 公園脇の道路を、原付の軽いエンジン音が通っていく。――と、その原付は公園の前で停止した。
 ヘルメットを外してゆっくりとこちらに歩いてくる人物は、智也の兄貴分であるひとり。
「おまえが拗ねて逃げ込む場所は、小さい頃からここって決まってるからなぁ」
 彼は苦笑しながらも、あたたかな視線を智也に注いだ。
「達也くん……」
 達也は、智也の隣の空いているブランコに腰かけた。
「お前を独りにしとくと、しげが余計に心配するからな。とりあえず、気が済むまで付き合ってやるよ」
「……うん」
 達也は肯き、それ以降口を閉ざした。
 今の智也にとっては、その静寂が心地よかった。
 もやもやと淀んでいた感情に少しずつ光が射してきて、素直な自分と向き合う。

 キィ、キィ、とブランコを揺らしながら空を仰ぐ達也は、白い息を吐いた。
 ――茂の一番近くにいる彼だから、智也の言動にはもちろん気づいているし、言いたいこともある。
 けれども達也は、智也が自分で気づいてボーダーラインを踏み越えるのを待っているのだ。
 智也が自分で、自分なりの答えを出さなければ、根本的な解決には繋がらないのだから。
「……ねえ、達也くん」
 十分ほど経過しただろうか。不意に智也が口を開いた。
 その視線は地面に注がれたままだ。
「俺、茂くんのこと大好きなんだよ。……達也くんも、太一くんも、マボも。みんなのことずっと、好きなんだよ。……だけど、何でか茂くんにだけ、心がもやもやするんだ」
 智也の右手が、自らの心臓のあたりをギュッと掴む。
「そんなの嫌なんだ。もやもやしたくない。茂くんの淋しそうな顔なんて見たくないのに……俺が、そんな顔させてる。させたくないのに。好きなのに、どうしたらいいかわかんないんだ」
 そのとき、智也の頭の上にぽん、と掌が乗った。
 ブランコから立ち上がった達也の掌だ。――そしてその掌は、智也の癖のない髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「たっ、達也くん〜!?」
「いいんだよ、それで。しげのこと好きだって、それだけハッキリ言えるんならいい」
 わけのわからない顔をしている智也を見て込み上げてくる笑いを、達也は息を吐くことで逃がす。
 ――要するに反抗期なのだ。
 太一も昌宏も通ってきた道である。仲介役たる達也にとっては、三度目の経験だ。
 ただ、太一はもともと茂に対してプチ反抗期のような態度になることも多かったし、昌宏は反抗期らしき感情もあったようだが、それを何とか茂の前では自制できたようなので、あまり目立たなかった。だからもしかすると、茂は気づいていなかったかもしれない。智也の反抗期はある意味、一番素直だった。
「智也。しげに対するもやもやした気持ちは、もうちょっと続くと思う。でも、いつか自然と受け容れられるから心配すんな」
「うん……でも……」
 智也は何か言いたりないという様子で語尾を濁す。
「でも?」
「俺……もうちょっとは、まだ茂くんのこと淋しくさせちゃうってことだよね……」
 達也は、びっくりするほど素直に成長した弟分の台詞がいちいち可愛くて仕方がなくて、笑いを堪えるのに苦労した。
 反抗期をすっかり抜けきるまではそうかもしれないけれど。
 ――きっとその日は、遠くないだろう。

 達也が不意に立ち上がった。
 バイブレーションで着信を知らせる携帯電話を耳に当てる。
「なに、しげ。え、帰ってくるのが遅い? あのなぁ、俺がいるんだから大丈夫だっての。……智也が風邪引くゥ? あーもうわかった、わかったから。……は? 明日の昼飯? ……んじゃ、智也に代わるからな?」
 顔中に苦笑を広げた達也が、ブランコに座ったままの智也に携帯電話を差し出した。
「明日の昼飯。しげはどうしても、お前の好物作りたいみたいだぞ」
 智也の表情が、泣き笑いのように崩れた。
 ひとつ息を吐いてから携帯電話を受け取る。
「……しげる、くん」

 ――智也。明日のお昼、何しよか?

 智也の幼い頃から変わらない、やさしい響き。
 まだもう少し、心臓は居心地が悪いけれど。

「ホットケーキがいいな。メープルシロップといちごジャムたっぷりの、ホットケーキ」

 鼓膜を震わせた了承の返事はきっと、明日智也の前に出されるであろう山積みのホットケーキよりもずっと甘かった。
 

2012.02.27


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